歴史と地価との関わり(1)―千葉県市川市-アソート綜合事務所 /樋口 勝彦
私が長年地価公示業務を担当してきた千葉県市川市。その歴史と地価との関わりについて、2回に分けて述べてみたい。
市川市の歴史は古く、定住性の高い集落が営まれ始めたのは縄文時代。市内各地には縄文時代の貝塚(姥山(うばやま)・向台(むかいだい)・曽谷(そや))が所在し、土器も多く出土している。その後、大化の改新により大和政権のもと下総国府・国分寺が置かれ、現在も「国府台(こうのだい)」の地名として残っている。市川市の現在の住宅地はおおまかに①市川地区②八幡地区③中山地区④行徳地区の4つに分けられ、各地区の形成・起源の背景にはその歴史が色濃く影響している。
①市川地区:徳川家康は幕府を開くにあたって交通の整備をし、軍事物資の中継基地となる街道駅や江戸に出入りする物・人を監視する関所を各地に設置。その一つが江戸川を挟んでの「市川・小岩関」である。その間は渡し船で往来し、現在も乗船可能な渡し場が「矢切の渡し」として小説や歌謡曲にも登場している。市川関の周辺には旅人のほか周辺住民の生活とも深く拘わる集落が形成されていき、これが江戸川沿いに形成された現在の「市川地区」の起源である。
②八幡地区:家康は江戸幕府を開くと日本国内の街道整備に着手し、八幡は市川市域で唯一の宿駅として公認されていた。八幡は五街道の一つ日光街道の付属として位置づけられた佐倉街道の第二宿に当たり、これが現在の「八幡地区」の起源である。
③中山地区:中山は日蓮宗と深い関係がある。日蓮は安房国に生まれ、法華信仰に尽くし、宗門を確立していったが、日蓮の死後、市川周辺を治めていた千葉氏の官僚がその後出家し、中山に寺(現在の「法華経寺」)を建立。寺の門前町が現在の「中山地区」の起源である。
④行徳地区:家康が江戸幕府を開く以前から行徳においては製塩が行われていた。塩は軍事物資として欠かせない物であった為、家康はこれを「宝」と呼んで製塩の整備に力を入れたと言われている。製塩を営む百姓を保護し水路を整備し、大消費地江戸に近いという立地条件と行徳船による輸送により、塩は江戸のみならず信州や白河方面にも運ばれるようになる。江戸幕府による製塩業の発展が現在の「行徳地区」の起源である。
このように歴史的変遷を経て発展してきた市川市は、現在も東京のベッドタウンとして人口が増加し、住宅地は都心同様に相続に伴う土地の売却・細分化が進行している。地域の発展には歴史的背景が影響しており、鑑定評価においては現況を的確に把握することはもちろんのこと、歴史的背景を把握することも重要な作業の一つとなっている。
アソート綜合事務所
不動産鑑定士 樋口 勝彦
株式会社ビル経営研究所の「週刊ビル経営」より転載(許諾済)
TAGS: アソート綜合事務所・市川市・樋口勝彦・歴史と地価との関わり | 2016年8月20日